No.32 7月2日【火】=野本教授と臓器移植=

おはようございます。

先週からの続きです。私たちの免疫ミルク事業を最初からずっと応援してくださる九州大学名誉教授の野本亀久雄先生ですが、先週からお話ししている通り、一国立大学の医学部教授という肩書では語りつくせないほど、日本のそして世界の医学界に絶大な影響を与え、21世紀の医療業界のみならず、ライフサイエンス産業全体をけん引してこられた、まさに第一人者と言われる人物です。その存在は一般の国民があまり耳にする機会はなくとも、医学を志し医療にかかわる人々にとっては、必ずといってよいほどお世話になっている、だれもが尊敬する有名な大先生なのです。

前回は、丸山ワクチン問題や日本の新薬開発における偉業についてお話ししましたが、やはり野本教授の数多の功績を語る中で、野本教授にしか成しえなかった仕事がいくつかあります。それが、臓器移植と院内感染の問題だったと思います。どちらも国民の命を守るためにどうしても解決しなければならない課題でありながら、当事者である医療従事者も、それを監督する行政も、そして法律を作る国会や政治家も、だれも解決できなかった難題であり、おそらく野本教授が取り組まなければ、いまだに日本の医療は世界から大きく立ち遅れていたかもしれず、また新型コロナ禍によって何百倍もの犠牲者を出すことになっていたかもしれません。そう考えると本当に背筋が寒くなる思いです。

まず臓器移植の問題ですが、日本は移植にかかわる医療技術や医薬品のレベルは決して世界に遅れていたわけではありません。ところが日本ではなかなか臓器移植が行われず、移植を必要とする患者が臓器をもとめて海外へ渡るケースが目立ちました。こうした事態は日本人が金で臓器を買いあさる行為として、国際問題にも発展し世界から非難を浴びることが続いていました。原因は日本の法律と日本人の死生観にあったのです。臓器移植には、必ず臓器提供者が必要です。ところが事故死などによる死者から臓器を摘出するには、迅速な死亡判定がカギであり、日本の当時の法律では完全に心臓が停止するなどの条件が厳しく、新鮮な臓器提供が難しかったと言います。特に頭部に損傷を受けて意識がなく植物状態になった場合、心臓が動いている限り死亡判定ができなかったのです。

世界では当時すでに脳死という基準があり、身体の生命反応が残っていても脳死判定されれば、人としての死亡を確認し、速やかに臓器の提供が可能だったのです。しかし日本人の死生観、特に家族がそういった事態になった場合、なかなか脳死状態を人の死として受け入れづらい問題があり、国会でもなかなか結論が出せなかったのです。そこで野本教授に白羽の矢が立ちました。野本先生はまず国民の理解を得ることが先決として、日本国中を廻り全国で市民集会、公聴会を繰り返し行いました。そしてその結果を踏まえて、脳死臨調を指導し、脳死判定の基準作りと法整備を進めたのです。国会では二度も廃案となっていた臓器移植法案は、野本先生の尽力で1997年にようやく可決され、制定されることになったのです。

この結果、脳死移植が日本でも法的に可能となりましたが、それだけではまだ不十分で、野本先生は脳死者からの臓器が、必要とする患者さんに公平公正に提供されるように、臓器移植ネットワークという全国の病院・医療機関をつないだ組織を作り、ここで一元管理するシステムを構築したのです。これは臓器移植にともなう非人道的な臓器の売買や、医療関係者の不正や汚職を防ぐ意味でも、絶対に必要なシステムと言われています。臓器移植という大きな問題は、最後に国民に対する責任をどうとるのか、その重責を負えるのは、やはり政治家でもなく官僚でもなく、もちろん現場の医師でもなく、やはり国民と常に向き合ってきた野本教授にしか背負えなかったのだとつくづく思います。

明日は、院内感染と医療過誤の問題についてお話したいと思います。

今日も一日頑張って行きましょう。

よろしくお願いします。

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