おはようございます。
先週からの続きです。お酒はなぜ20歳から?という問いから始まり、私たちの生活を取り巻く様々な基準というものには、科学的な方法で客観的に定められたものばかりではないというお話をしてきました。疫学的なデータや動物実験、あるいは工学的実験などの科学的知見や手法に基づいて定められたものが多いのは事実ですが、そうした基準値にも、実は主観的な推定と仮定の要素がきわめて大きく関与していると言います。
そして基準値の特徴として、一度決まるとなかなか変更されないことも事実で、これも使いまわしで述べた、ある種の「権威」を持ってしまうことの表れであると考えます。一度決まるとそれをもっと厳しく変更する場合もそうですが、緩和する場合はなおさら変更が難しくなるという特徴があります。法律の側面から見ると、飲酒の20歳や水道水の水質基準値などは、法律によって遵守義務が定められ、違反すれば罰則を受けることになります。一方で環境基準値のように目標値、あるいは努力義務としての基準には、法的拘束力がないものもあります。
では、私たちの健康や生活に関する基準に着目してみたいと思います。例えば食品中に含まれる発がん性物質は、どの程度まで安全とみなすのか、米国ではこの基準をめぐって何度も裁判が繰り返され、それを食べ続けた場合に、生涯でがんが生じる割合が「100万人に1人」というレベルに現在は落ち着いていると言います。しかし生涯で2人に1人ががんになる時代に、その基準をどのように根拠づけたのか、素人が考えても大きな疑問符がつきます。日本は原発事故以来、その安全基準の見直しが何度も議論になっていますが、その基準値もどこまでが受け入れられるリスクの水準として許容されるのか、まさに科学的データだけでは決められない問題があります。
さらに個人の健康という点では、先週も述べた血圧や血糖値といった診断基準も、それを疾病や治療の判断根拠として医療が行われているわけで、必ずそこには100%正しい判断はあり得ないので、どのレベルまでのリスクを受け入れるのかという問題が常に付きまとうことになります。そのリスクを患者に認知させ、医師の立場を正当化するためにインフォームドコンセントというルールがあると言っても過言ではありません。
どのような例においても結局のところ、基準値を頼りに判断をするのは、一定のリスクが伴うことをしっかりと認識したうえで、これを過信せず、特に自分の健康にかかわることは必ず個人差があることでもあるので、最後は自分で判断する癖をつけることが大切であると考えます。しかし、そのためには専門家レベルでなくても、自身で納得がゆく判断をするためには、相応の知識も必要で、決して医者任せ、人任せにしないことも重要であると思います。
今日も一日頑張って行きましょう。
よろしくお願いします。

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