おはようございます。
免疫ミルクと野本亀久雄先生との出会いについては、拙著「免疫ミルクをご存じですか」(2020年幻冬舎刊)の第1章免疫ミルク誕生ものがたりに詳しく記されていますが、まだお読みでない方もいるかと思いますので、内容を少し抜粋する形でご紹介したいと思います。
まず野本亀久雄先生は、皆さんもよくご存じのとおり九州大学医学部に生体防御医学研究所を設立され、世界の基礎医学の分野で、生体防御論という新しい学問分野を打ち立てられた世界的な科学者であることは言うまでもありません。その功績はいまだ現在進行形であり生体防御医学が、まさに現代医学において、さまざまな感染症のみならず、がんや腫瘍といった現代病からあらゆる生活習慣病まで、その治療技術や新しい医薬品の開発に至るまで、すべての病に対峙するための基本原理として活用されているのです。
野本亀久雄先生自身はすでに一線を退かれていますが、そのお弟子さんたちが現在の日本の医学界を支えていると言っても過言ではなく、国公立大学の医学部はもちろん、有名私立大学医学部の教授、あるいは医学部長を務める方がたくさんいらっしゃいます。ウィキペディアで確認できるだけでも、40名近い医学部教授が名を連ねておられます。かつては野本軍団ともいわれた方々で、もちろん医学部以外にも、薬学系、農学系、そして大手企業の研究室にまで、野本先生を師と仰ぐお弟子さんたちが、現在も第一線で活躍されているということです。
その野本教授と免疫ミルクの出会いは、1988年12月のことでした。九州大学病院の敷地内にある、九州大学生体防御医学研究所の所長室に私は免疫ミルクの資料を持参して、野本教授を訪ねました。事務の方に案内されお部屋に伺うと先客がまだいらっしゃったので、部屋の外にある椅子で待つように言われました。夕方の5時を過ぎていましたので、私がその日の最後の来客でした。ほどなく、先客が部屋から出てこられましたが、非常に大柄なスーツ姿の紳士で、なんとなく顔に見覚えがあったのですが、その時は思い出せませんでした。
そしてようやく野本先生のお部屋に入れたのですが、開口一番先生はおっしゃいました。「こういうのをわしはずっと探しとった。これはわしが面倒見てやる。」そう言ってまっさらの大学ノートを私に手渡され、4つの動物実験の計画と要領を指示されるままに、ノートにメモしました。これが野本先生と免疫ミルクとの出会いであり、そこに私が立ち会えたことは今から思えば本当に奇跡のような出来事でした。当時の私は入社5年程度のまさにペイペイでしたから、医学界の重鎮である野本先生にお目通りがかなっただけでも凄いことで、まさかの出来事の連続でした。
今思い返せば、私はただ大手製薬会社の開発部長さんの口利きで、野本先生に免疫ミルクの資料をお送りし、先生の指示通りにその日、九大の研究室を訪ねただけでした。私から資料を説明したり、先生に何かをご提案したりということもなく、ただ言われたとおりにノートにメモをして、あとは呼んであったタクシーに先生と同乗させていただき、先生行きつけの中洲の赤ちょうちんに行っただけの日でした。あえて言えば先生にとっては私は私でなくてもよかったのかもしれません。免疫ミルクが野本先生に導かれるように必然的にめぐり合わせたのであって、私はその幸運な目撃者だったのだと思います。しかしその幸運を運命として受け入れ、そこから私は以後現在に至るまで、人生をかけてこの免疫ミルクに携わることになったことは、まさに奇跡的なめぐり合わせによる運命であると思っています。
余談ですが、あの日私の先客でお部屋にいらしたスーツ姿の大柄な紳士は、現在日本で第二位の大手製薬会社となったD社の当時の副社長の方でした。お顔に見覚えがあったのは、一度だけ海外の取引先の接待の場で名刺交換させていただいたことがあったからでした。新薬開発に成功し、日本はもとより海外の多くの国で販売に大成功した医薬品の件で、お礼に来られたとのことでした。もちろん先生はお礼と言っても企業から金品を受け取るような方ではありませんので、九州大学への奨学寄付金として納付するようにご指示されたそうです。ただその金額を聞いて私は腰を抜かしそうになったのを今でも覚えています。この続きはまた明日お話ししましょう。
今日も一日頑張って行きましょう。
よろしくお願いします。

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