おはようございます。
野本亀久雄九大名誉教授と免疫ミルクの出会いから、お話は先生の偉大さの源泉とも言える「すべては国民のため」という、野本流の大原則、先生の仕事における哲学、あるいは美学がありました。そしてこれを常に徹底されてきたからこそ、孤高の強さと多くのお弟子さんたちからの信頼と尊敬を集められたのだと思います。そして、そのお弟子さんたちからなる野本軍団は、やがて日々黎明塾と言うさらに大きなグループを形成し、21世紀を担う新しい基幹産業として、医療だけにとどまらないライフサイエンスとバイオインダストリーの旗頭になって行きました。
日々黎明塾とは、野本教授を中心に、そのお弟子さんである第一線の医学、自然科学の学者たち、そして当時の厚生省、通産省、農水省をはじめとする幹部官僚、および日本を代表する医療、食品、エネルギー産業に携わる企業のトップたちが集まって組織された、有志の団体でした。最盛期は1990年代でしたが、名を連ねる企業だけで200社を超え、今でも語り草になっていますが、1989年の年始に昭和天皇が崩御された折には、殆んどの新年行事が自粛される中、日々黎明塾の賀詞交歓会は、会員の強い要請で中止されることなく、東京でも最大規模を誇る新高輪プリンス「飛天の間」に、1000名以上の会員が参集したという逸話があります。もちろん当時、私も参加させて頂き、多くの業界の要人の方々と名刺交換させて頂いたのを覚えています。
そして、一般の方々にとっても記憶に残る野本軍団の大仕事の一つに、丸山ワクチン問題があります。1981年に丸山ワクチンは有償治験薬という耳慣れない形で、当時の厚生省により医薬品としての認可を得ますが、この画期的な行政判断を引き出したのが、他でもない野本教授たちの働きであったのです。丸山ワクチンを医薬品として許認可するには治験データが不充分とする中央薬事審議会と、丸山ワクチンの投与の継続を希望する多くの切実ながん患者の声との間で板挟みとなった行政が、最後にその判断を託したのが野本軍団であり、野本教授が責任を負う形で周囲を納得させ、現在に至るまで40万人以上にのぼるがん患者の希望をつないだと言われています。まさに責任が取れない日本の行政、政治の最終請負人、しりぬぐい役を買って出たのです。
医薬品の許認可関係では、日本の製薬企業にとって野本軍団の存在は非常に大きかったと言えます。日本を代表する大手製薬で野本教授と交流のなかった会社はまずないと言えます。1990年代、各企業の幹部が九州大学の野本研究室に日参していたのは業界では有名な話でした。化学メーカーであったK社は、カワラタケというキノコからクレスチンという抗がん剤を開発、年商600億円の大型新薬に成長し、化学会社が医薬品開発という異業種へ参入する先駆けになりました。また今日業界第二位にまで成長したD社が、世界にその名をとどろかせた合成抗菌剤タリビット(オフロキサシン年商2000億円)の開発も野本教授がいなければ、成しえなかったと言います。同じく、野本教授が指導していた富山の中堅化学メーカーT社は、その開発した抗生剤の特許によって、世界のファイザーから数百億円の特許収入を得たそうです。ほかにも例をあげれば枚挙にいとまがないほど、野本教授の影響力は絶大だったと言えます。
次回は、院内感染や臓器移植の問題についてもお話したいとおもいます。
今日も一日頑張って行きましょう。
よろしくお願いします。

コメント